無駄な争いをしないための哲学

昔から哲学、心理学、道徳が好きなのでちょこちょこ勉強しているのだが、
そろそろ少し体系的に学んだりしたいと思って、本を読んでいる。

自分の認識だが、哲学とは、真理(絶対的に正しいもの)を
探す学問であり、真理は、数学で例えると公式のようなもの。
よく、哲学は何に役立つのか? といわれるが、哲学自体は
役立つことを目指しているのではない。
数学の公式もそれ自体では何に役立つかわからない場合が多いが、
でもちゃんと役に立っている(三角関数とかは特に)

まあ学問というのはそういうものなので、
何かの役に立つから研究するだけではない。
逆に何かの役に立つと思って研究しても良いとは思うが、
その場合は正解ありきだったり、
望む結果ありきで研究が進んでしまったりするので、
あんまり好ましくはない。

哲学自体は役に立つことを前提とはしていないが、
哲学を使って、処世術や、道徳、一部の心理学に役立つだろう。

例えば、善とは何か? が解れば、
僕たちは善人になることが出来るだろう。
善人を目指す人たちにとって、
「善とは何か」は、いわずもがな重要である。
もし、全ての人たちに共通の善という概念が定義されたなら、
人はそれを目指して行動すれば、
あらゆる人にとっての善人になれるのである。
そこら辺はカントさんが頑張って考え出したのだが、
めっちゃわかりにくいとは思うし、僕も恐らく理解出来てない。

個人的に、一番大きな指標となる哲学(処世術)は、
「出来るだけ多くの人の視点に立つ」というもので、
視点が完全に一致すれば、そこから見える景色は必ず一致する
(目が1つか2つかで違う!とかは置いといて)ので、
同じ意見が持てるはずだ。複数の視点から、一つの物事を見ることで、
物事を正確に理解することが出来る。
少なくとも2つの視点から見なければ、それが三角形なのか円錐なのか
わからないだろう。

喧嘩している2人がいたとして、
どれだけ片方の言い分が正しいように見えたとしても、
もう片方が間違ったことを言っているとは限らない。
だって一人は三角形だと言って、もう一人は円錐の底を見て、丸だ!
と言っているだけかもしれないのだから。
世の中にはそういった喧嘩が毎日行われている。
それは非常にくだらないことだと思わないだろうか。
もう少しだけ、お互いにお互いを理解する気持ちさえあれば、
そんな無駄な争いの時間を割かなくて済んだのだ。

ある程度大人になれば、完全な間違い
(例えば円錐を見て、四角ですね、とか言う人)
はそういないものだ。
なのに多くの人は、相手が間違っている前提で話を進めたがる。
まずはお互いに正しいことを言っているのを前提として
話を進めるほうが良い。
そして少しずつ視点を相手に寄せて行き、
「あ、そこから見ると確かにそう見えるね」
と気づくことが出来れば、
きっともう一歩、世界が広がっていくと思うのです。

「視点の違いはわかったけど、相手に自分の視点に立って欲しい」
というのはまた、この次のステップなので、
まずはお互いに視点が違うことを認識しないと、話にならないのです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

*

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)